言葉で世界は変えられる。

見てくれた人に何か考えてもらえたら。

良い日。

良い日だった。

そんな風に言って一日を終わりたい。

日々を過ごしていけば、当然辛い日も出てくる。

それをどう捉えるか。

辛いことがあったから、今日は良い日ではなかった。

そんな風に思う時もあるだろう。

むしろ、なかなか良いことなんて起こらないのかもしれない。

でも、それは自然と起こらないだけで、起こそうと思えば起こせるのではないか。

自分の力でいくらでも。

辛いことが一つでもあった日は、良い日ではないのか。

どれだけ小さくても良いことがあれば、良い日にすればいいのではないか。

その時に、良いことと辛いことを天秤にかける必要はない。

一日の終わり方っては、自分の自由に出来る。

なら、どんなに辛い一日だったとしても少し良いことを起こせばいい。

そうして良い日だったと言える日々を送りたい。

どれだけ辛い日々も、考え方次第で乗り切っていこう。

その先にある良い日を目指して。

文字。

喋っている言葉より、文章に書かれた文字の方が人に与える影響は多いのかもしれない。

人に言われる言葉ってのは、聞く耳を持たなければどうにでもなる。

しかし、文字で書かれた文字は違う。

確かに見ないでおこうと思えば、見ないで済むのかもしれない。

でも、見ないでおこうと思う文字をどうやって見分ける。

目を閉じて生活することはほとんどの人が無理だろう。

SNSなどで送られてくる文字に関しては、対策の使用もあるだろう。

見たくないけど、それを判断するためにも文字ってのは一度見て確認するだろう。

その時点で、良いことが書いてあればじっくり読むこともできる。

嫌なことが書いてあった場合、もう二度と見ないようにしても一度は見て嫌な気持ちになるだろう。

人が文字を読む時は、一度その言葉を理解しようと自分の中で声に出して読むだろう。

それだけで人に与える影響は大きい。

人が話す言葉ってのは理解しても、意外と深くまでは理解できない。

名言なんかは言葉で言われるより、文章に書いてある文字を見て影響を受けるだろう。

良い影響も悪い影響も文字の方が受けやすいんだ。

人が口から出る言葉ってのはもうそんな種類が多いわけでない。

口では何とでも言えるってのもある。

文字でも何でも書こうと思えば書けるけど。

SNSなんかで文字を打って、人に見られるとこに載せる。

それの影響って、直接言われる言葉より人によっては傷つくし嬉しい。

文字で形に残るってそういうことだ。

何でも書けばいい。

何でも自分の自由だ。

ってしたら、もうめちゃくちゃだろう。

その流れは止められないけど、流れを少しだけ変えることぐらいは出来るだろう

勇気。

勇気って言葉がある。

でも、みんな勇気って何か知っていますか。

聞いた人全員が知っていると言うだろう。

じゃあそこでもう一つの質問をしてみよう。

勇気を自分の言葉で説明してと。

そうした時、あなたはその質問に答えることが出来ますか。

僕は出来ない。

勇気って何だ。

よく勇気を出せって人は言う。

勇気って何だ。

あの人は勇気がある。

あの人には勇気がない。

勇気を調べてみると、ものおじせずに立ち向かう気力などというように書かれている。

人が認識している勇気は確かにそういうものなのだろう。

そういうことを質問された時に答えれればいい。

でも、それは咄嗟に答えようにもほとんどの人が出てこないだろう。
勇気は勇気だって。

僕的にはそれでいいと思う。

勇気ってのは人それぞれある。

人の顔もそれぞれあるように、勇気の形ってのはそれぞれ違う。

それは表わせれないものだけど、自分の中にはそれっぽい雰囲気の形がある。

勇気って簡単な言葉だけど、よく考えると深くていい言葉なんだよ。

見ている。

目の前で転んだ人がいたとする。

あなたはどうしますか。

よくこんな質問があるのかどうかは知らないけど、どうしますか。

こういう質問に対して、ほとんどの人が助けると答えたいだろう。

まぁでも、ほとんどの人が助けずにそのまま通り過ぎるだろう。

周りの人が多いと余計にそうだ。

誰かが助けるだろうと。

見ているだけで自分が動くことはほとんどない。

人は意外に他人に興味がないんだ。

いじめも、苦しんでいる人も、そういう人を見たら人は可哀想だと言う。

そう言うだけだ。

確かに実際に動いている人はいる。

震災しているとこにボランティアでいっている人もいるだろう。

それでも見ているだけの人はいる。

見ているだけってのは楽だ。

だから、人は見ているだけでありたいんだ。

少しでも楽したい人ってのは見ているだけなんだ。

別に、楽でいることは悪くない。

見ているだけなんだ。

見ているってのは何だか考え方が難しい。

前提。

前提に何を置くか。

自分は成功する前提で動いているのか。

自分は失敗する前提で動いているのか。

自分の思い通りになると思って動いているのか。

自分の思い通りにならないと思って動いているのか。

物事の前提として思い通りに事が進むとは思わず、失敗した時のことを常に考えておく。

でも、それの繰り返しが結果的に成功へ近づく考え方なのかもしれない。

絶対に思い通りに行くっていう自信は大事なものなのだろう。

でも、絶対思い通りになると思って失敗のことを考えずにやっていくと、

必ずどこかで躓いてしまう。

躓いた時、前提として思い通りにならないことを予想してた人と、

前提として、思い通りになることを予想としてた人とでは対応が違う。

どっちの方が早い対応が出来るのかは誰でも分かる。

前提をどっちに置いておくかで、その後の成功と失敗の難易度は変わってくる。

良いこと。

良いことか分からない。

自分のしていることが良いことかどうかが分からない。

もしかすると、間違ったことをしているのではないか。

多くの人にとっては迷惑なことなんじゃないか。

自分の自己満足でした行動なのかもしれない。

目の前のことに一生懸命で、周りのことは何も考えてなかったのかもしれない。

万人を納得させることってのはこの世で一番難しい。

誰かが得をして、誰かが損をする。

その比率は様々だが、均等になることはこの先一生ないのではないか。

それぐらい、一定のバランスを取るのは難しい。

自分が良いことをしたと思っても、どこかの誰かは余計なことをと思う人もいる。

良いことって何だ。

誰にとって良ければいいのか。

相手のことを気にしてひたすら良いことをしないといけないのか。

全部、相手の顔色を窺いながら。

それは本当に良いことなのか。

自分が良いと思ったことをして何が悪い。

そういう気持ちから親切ってのが生まれてくるんだ。

自分が良いと思ったことはどんどんやっていかないと。

勿論、常識の範囲内でだ。

ここを考え無しにやると、ただのネジの取れた人になる。

それさえ出来れば、良いことってのはしていいんだ。

相手の顔色を窺う必要はない。

自分が良いと思ったことを表に出すの間違いじゃない。





縋る。

人は何かに縋る。

自分が危機的状況に陥った時。

自分が不安でいっぱいになった時。

自分が何かを頼りたい時。

自分より相手の方が優れている時。

人はその状況を打破しようと何かに縋る。

それは人でも物でもどんな形のモノでも。

人が縋る時、その時は基本自分の失敗をどうにかしようという時。

縋るってことは自分の失敗を認めるってこと。

潔く自分の失敗を認めることは大切だ。

もしも、自分に誰かが縋ってきた時、それはありがたいことだ。

相手は失敗を犯した。

そこに縋ってきたということは、自分ならそれを解決できると見込んだからだ。

そういう時は全力でその状況を打破してあげよう。

もしも、自分が誰か人に縋ろうとした時、絶対にこの人だって人を見つけないといけない。

適当にその場しのぎで人には縋らないようにしないと。

物だとかそういうものにはそういうのはないが。

人に縋るって時は絶対に頼れる人に縋ろう。

それは何も恥ずかしいことではない。

これが恥ずかしいなら、世の中の協力なんて言葉はあってないようなものだ。

縋る時は自分の失敗を認め、縋られた時は全力でその状態を対処出来る人になりたい。