言葉で世界は変えられる。

見てくれた人に何か考えてもらえたら。

気付いてくれない。

何かに気付いてほしい時が人にはある。

ちょっとした変化に気付いてほしい。

気付くか気付かないかの行動に察して気付いてほしい。

そう思っても気付いてくれない人はいる。

逆に、気付いてほしくないところで気付かれる時もある。

人がそのことに気付くのは、その人がどこを見ているかという話ではない。

気付かないのは関心がないからってことではない。

気付かないのはしょうがないことなんだ。

それを気付いてくれないから、私に関心がないんだと決めつける女の人が苦手だ。

いつも見ているからと変化に気付く男の人が苦手だ。

そんなことで一喜一憂しているのは、きつく言うと自分だけだ。

そんな些細なことでも幸せだと感じるならいい。

でも、そんな些細なことで喧嘩をするのはやめてほしい。

一番良いのは、そういう些細なことに気付いてはいるけど口には出さない。

口には出していないけど、気付いていることを気付けている関係かな。

そっちの方が何か分からないけど、信頼している感じがしないか。

こう思っているのは僕だけかもしれないけど。

何でも気付いてくるのがいいか、何も気付いてくれないのがいいか。

気付いてはいるけど、恥ずかしくて言えないか。

どれがいいんだろう。

先入観。

人は先入観に釣られる。

人は最初の先入観でその人の8割以上を決める。

人はその人の見た目、態度、仕草、立ち振る舞いで印象を決める。

人は中身が大事だって言うけれど、誰がどう考えたって外見が一番大事だろう。

中身が大事になってくるのは、そこから長年付き合おうとした人だけだ。

まずは、外見で関わるかどうか決めるだろう。

外見って言うのは、何も格好いい人、可愛い人ってことじゃない。

それは人それぞれ見方が違うし、感想も違う。

外見は外見でも、どちらかと言えばその人の雰囲気。

人はその人の雰囲気次第で態度を変える。

そうしてないつもりでも、人は勝手にそうしてしまっている。

先入観だけで人を判断しないようにするってのは、ほとんどの人が出来ない。

それは本当に意識してないと出来ない。

その人を最初に見た時に、自分の中である程度のイメージが作られる。

別に先入観を持って人と関わるのが悪いわけじゃない。

先入観であまりいい印象を持たなかった人と、無理して仲良くなる必要もない。

上手くやろうにも、何かしらの歪みがそこには生じてしまう。

じゃあどうするのか。

自分の本能、先入観を大切にすればいい。

それだけ。

自分に自信を持つことこそが、より良い人間関係を築くのに必要なことだ。

人は中身が大切だって言う人は信用できない。

それは中身も良いに越したことはない。

でも、重要なのはどう考えても外見の方だ。 

息。

身体を動かして疲れた時、人は息切れをする。

人は何かに悩むと溜息が出る。

人は生きる為に息をする。

息をすることってのは人にとっても、他の動物にとっても一番大切なことである。

いい意味で息が出来なくなるのは、笑う時だけだろう。

人は時に息が出来ないほど笑い出す。

実際にはそんなことはないんだけど、そういう言葉もある。

生きる上で一番大切な息をするのも忘れるくらい笑うって何か素敵かな。

息をするのは当たり前だけど、意外と笑うってのは当たり前じゃない。

そういう状況に陥らないと、人はなかなか笑えない。

時には、息が苦しくなるぐらい笑いたい。

そういうのって考えると何か幸せな感じがしないかな。

全力で笑うってのは人生において限られた回数しかない。

それの回数は自分がいかに笑おうとするかで限界値が増えていく。

もっと笑おう。

息が苦しくなるぐらいの笑った顔ってのは、一番かっこいい笑顔。

また明日。

また明日。

明日やればいい。

明日から。

明日には

明日こそ。

明日って言葉は多く使うだろう。

明日の予定立てる時も。

明日って人にとっては必ずまた来るものだと考えている。

でも、歌の歌詞や偉人の名言なんかでは明日は来るかどうか分からない。

とか、明日やろうは馬鹿野郎だとか。

人は明日が来るのを当たり前だと思っている。

でも、頭の片隅で明日が来ないんじゃないかと考えている。

それに、明日やればいいって言葉は批判されがち。

人は未来を大切にしているようで、今を一番大切にしている。

それはそうだ。

まだ見ぬ先のことより、今まさに目の前で起きていることを大切にしたいだろう。

先のことを見据えて行動できる人なんて、そう多くはない。

明日っていう不確定な存在も、人は絶対に来るものだと。

また明日ね。

簡単なことと難しいこと。

人を傷つけることは簡単なことだ。

いくらでもやり方があるだろう。

逆に、人の傷を癒すことは難しいことだ。

心の傷なんてことを言うが、それを癒す術は確立されていない。

そういうのは他人の力でどうにか出来るものでもない。

他人の優しい言葉で癒すなんて出来ない。

他人の酷い罵声で相手を傷つけることはいくらでも出来る。

他人の言葉に救われた、そういうのはそんな多いことじゃないだろう。

救われた数と傷つけられた数どっちが多いか。

圧倒的に傷つけられた数の方が多いだろう。

そうなった時、自分の今までの言葉を振り返ってみよう。

人は簡単に人を傷つけれる。

それは言葉でも、行動でも自分の手でも、人にやらせることも。

自分に他人を癒せるかって言われた時に、咄嗟に出来るか。

出来ない。

だから、人は傷つけてはいけないんだ。 

閉じておく。

目はずっと開け続けられない。

瞬きをする瞬間も、疲れて寝ている時も。

時には目を閉じておくことが、人には必要なのは全員が知っている。

目の前で嫌なことがあった時、人は目を反らす。

人は目で見たことを信じる。

しかし、世の中には現実を受け止めれないことが頻繁に起こる。

そういう時、人は目を瞑る。

目を閉じると前が見えない。

当たり前なことだが、自分の見たくないものは誰も見たくない。

目を閉じている人は、その時何か見たくないことが起きている。

それを絶対に目を開けて受け入れる必要はない。

理不尽に目を当てないこともできる。

しかし、ほとんどの人が結局、目を開けて理不尽を受け入れる。

それが良いのか悪いのかは分からない。

現実を受け入れることは大切なことかもしれない。

現実を全部受け入れることが当たり前ではないのかもしれない。

そう思ったときは、思いっきり目を閉じてしまえばいい。

見たくない現実は見なくていい。

逃げることを人は恥じだと言うけど、それは押し付けだ。

人は逃げることも出来る。

出来ることなら自分の判断でやればいい。

突き詰める。

考えを突き詰める。

人生についての考えを突き詰めていくと何に辿り着くか。

何をそんな無駄なことをと思う人がいるかもしれない。

確かにそんな考えは言うほど必要ないだろう。

でも、何となく生きているとふと、そんなことを思う時はないか。

それを考えていると、たまに考えを突き詰めて行きたくなる。

それが人としての探求心なのかもしれない。

人は自分に不都合なこと、不快なことを避けようとする。

それは人としての本能なのかもしれない。

それでも、その生き方を人は間違いだと言う。

綺麗ごとのように。

どっちが綺麗ごとなのかは、その人の感性次第なのかもしれない。

でも、そういうことって自分の考えを突き詰めて行くと楽しくなる。

その考えが人から否定されようと、肯定されようと、自分の中だけに閉まっていようと。

人は特に意味もない、存在すらしてないことを考えるのが大好きだ。

願いだとか、希望だとか、夢だとか。

そういうことを考えている時が、人は一番生き生きしているだろう。

そういうことを突き詰めて考えている時が、人は一番生き生きしているだろう。

考えを突き詰めようと考えるのは楽しいことだけでいいだろう。