言葉で世界は変えられる。

見てくれた人に何か考えてもらえたら。

大人と子ども。

「そもそも、大人が格好良ければ、子どもはぐれねえんだよ。」

 

これまた、僕の好きな小説家の本に出てくる言葉。

 

僕が人生において大切だなって思うことは、この小説家さんと、ある漫画家さんの作品に多く存在する。

 

今日もまたそれっぽいことを語る。

 

最初の言葉を見た大人はこう言うだろう。

 

「私たち大人は毎日真面目に働き、子どもたちの為に動いているのだ。その姿はとても格好いいだろう。子どもがぐれるのは私たち大人の責任ではない。子ども同士の関係がぐれるきっかけだ」と。

 

最初の言葉を見た子どもはこう言うだろう。

 

「自分たちがぐれる理由は、大人が格好良くないから。あんな大人たちみたいになるなら、大人が示す道なんて外れて生きるよ。」と。

 

大人とは、十分に成長した人。考え方や態度が十分に成熟している人。

 

大人はこれからの先を作る為に働いている。これからとは、勿論自分たちの至福を肥やす為ではない。

 

これからとは、当然子どもたちのことである。

 

宇宙の為、世界の為、自国の為に私は働いているという人もいるかもしれない。

 

そんなものは建前でしかない。

 

結局は、今から生まれてくる子ども、はたまた、今を生きる子どもたち、つまりは未来があるモノたちの為である。

 

酷な言い方をすれば、「大人に未来はなく、未来があるのは子どもだ。」ということである。

 

そんな子どもの為に働いている大人が格好悪くてどうする。

 

「君たち子どもは、今の内にしっかりと我々大人の背中を見て、未来に向かって歩いていけ」と言えないといけない。

 

大人の責務はこれ一つである。

 

本当に大人は格好悪いのか。

 

逆に、格好悪くない訳がない。

 

「子どもにいじめは駄目だ」と、言い続けてるのに何故いじめがなくならいのか。

 

誰だって分かる。大人もいじめをしているからだ。

 

大人がしているということは、背中を見て歩く子どももしているに決まっている。

 

だから、この世の中からはいじめがなくなることは皆無。

 

「同じクラスの仲間なんだから、仲良くしないと駄目だ」と、言い続けているのに何故喧嘩がなくならないのか。

 

誰だって分かる。大人も組織の中で喧嘩をしているからだ。

 

大人が喧嘩しているのに、子どもに喧嘩は駄目だと言っても説得力がない。

 

大人がやっていることを子どもは見ている。

 

周りの大人に気づかれないことも、子どもは気付く。

 

子どもは、大人よりよっぽど空気の変化に敏感だ。

 

何故子どもがぐれるか。ここまで来れば大方、誰にでも次の言葉が予想できる。

 

「大人がぐれているからだ。」

 

「そもそも、大人が格好良ければ、子どもはぐれねえんだよ。」

 

つまり、そういうことだ。