言葉で世界は変えられる。

見てくれた人に何か考えてもらえたら。

過ぎていく。

過ぎていく。

春が過ぎ、夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬が過ぎ、一年が過ぎていく。

新たな季節が来ると、一つの季節が終わる。

季節と一緒で、刻一刻と時間は過ぎていく。

その時に出来ていたことが出来なくなる哀しさ。

その時に出来なかったことが出来る嬉しさ。

季節と違うのは、一度過ぎると二度と同じ時間が戻ってこないってこと。

儚く淋しいことを。

そんなことは誰もが知っている。

でも、多くの人がそれを知っていても深くは考えない。

だって、それが当たり前なんだから。

だから、人は過ぎていく時間の中で、思い出を残そうとする。

その過ぎていった時間の存在証明がほしいかのように。

そうやって意味付けをしている最中にも、時間は過ぎていく。

残された時間はどれだけだ。

終わりを告げるまでの後どれだけあるのか。

過ぎていく時間は決して止まってくれない。

ゴールは決まっている。

過ぎていくんだ。

それは哀しいことなのか、先がある嬉しさか、思い出を作るためか。

楽しくなってきたね。

これだけ簡単に時が過ぎていくってことは。

見失う。

見失っていることはないか。

自分がその仕事に就いたのは何の為か。

やりたいことなんて最初っからなかった人もいるかもしれない。

何かしらの分岐点で、自分の意志で決めた道を行く。

それには何か考えてそっちに行ったはず。

その時の考えを、目的を見失ってはいないか。

物事を見失わないようにするのは難しい。

それをずっと考えて、見続ける必要があるから。

でも、物事を見失うのは簡単にできる。

目を逸らしたり、考えることをやめればいい。

でも、それは必ず後から後悔することになる。

だから、人は見失わないように喰らいついていく。

教えを諭す側は後悔させないように喰らいつかせる。

今まで見失ってしまった教訓があるから。

見失わないように。

見抜く。

見抜く力ってのは、人が持つ特技の一つ。

他の動物も見抜くことは出来るが、人のように思考を巡らせて見抜きはしない。

本能のままに分かるのが動物で、本能だけではなく、その過程や経験を駆使して見抜くのが人。

見抜くのは、嘘とか本質。

嘘を見抜くにも、見抜く必要のある嘘と、見抜く価値もない嘘がある。

それを人は本能で感じ取る。

人にだけ物事の本質を見抜こうとする思考がある。

でも、多くの人は本質を見抜こうとはしない。

宝の持ち腐れとはこのことか。

本質は知ろうと、見抜こうとしなければ知れないし、見抜けない。

単純に流されているだけで、本質を見抜こうとしないと。

人の意思決定は基本多数決で決まる。

その多数決がもしも間違っていたら。

本質を見抜けない人が多数決側にまわっていたら。

本質なんて分かろうとしても分からない。

でも、それを見抜く価値は必ずある。

凝らすしかない。

眼であったり、感覚であったり、事実や経験などを駆使して。

間違った多数決が、少数派に傾くぐらいの波を起こせるように。

多数派の場合は、他の少数派を全員味方に付けるぐらいの勢いで。

見抜いていこう。

自分の考えや他人の考え。

自分の嘘や他人の嘘を。

右も左も。

右も左も分からない。

分からなくて、不安で、それでも進まなくちゃ行けなくて。

立ち止まったら、後ろから知らない何かに押される。

逃げようと思って、後ろを向いても誰かがこちらを睨んでいる。

逃げるなと。

だから、時にその怖さに挫けそうになる。

周りを見渡しても、自分で精一杯で誰も助けようとはしてくれない。

それ程までに人は孤独で、誰にも助けを求められない。

一人で不安なまま、暗い世界を壁伝いに行く。

でも、その壁も急になくなる。

そうすると、自分の居場所がどこだか分からなくなる。

道はあるはずなのに、どこを歩いても暗い。

前も後ろも、右も左も。

そうか、これが僕の人生なんだ。

誰も助けてはくれない。

ひたすらの暗闇が続いている。

光がどこからも入ってこない。

ヒビも入らない。

どんなに壁を叩こうとしても空振るだけ。

あ、そうか初めから壁なんてないのか。

暗いって思ってるだけで、目を開けていないだけだった。

そんなドジに、ちょっとの笑顔を見せ目を開く。

下を見れば道が引かれている。

前も後ろにも、右にも左にも。

自分は一人かと思ったら、前に背中だけ見える人がいる。

他の人も目を開いて、自分の道を確かめ歩いているのか。

その事実を知れただけで、勇気が沸いてくる。

さあ、自分の人生はこれからだろ。

傲慢。

人は傲慢な生き物だろう。

ほとんどの人が気付いているだろう。

勝手に想像して、見えないモノを信じて行動する。

自分だけだ。

周りのことなんておかまいなし。

あの人は傲慢だって、言っている人が傲慢じゃないことはほぼない。

その人が傲慢だと気付くなら、必ずどこかで自分も傲慢なことをしている。

傲慢なのはしょうがない。

よく言う、だって人間なんだから。

そういうことなんだ。

でも、傲慢だからと言って、表に出すのは控えよう。

傲慢なのは仕方ない。

だって人間なんだから。

それを、自分は傲慢じゃないと言い張るのはやめよう。

どうせ傲慢なんだ。

認めようではないか。

認めた上での行動が大事なんだよ。

傲慢を上手く隠す。

これが必要になってくる。

傲慢は嫌われる。

傲慢を上手く隠せる人は好かれる。

どっちがいい。

どんな人だって、嫌われるよりは好かれたいだろう。

上手く隠すために何が必要なのか。

それは自分の傲慢を認めるしかない。

認めれば、それを出さないように気を付ければいいだけだろう。

簡単だよ認めてしまえば。

贈り物。

ほとんどの人が、人に贈り物をしたことがあると思う。

贈り物はもらった方は勿論、贈った方も気持ちのいい凄く幸せなモノ。

ごくごく稀に例外もある。

全然いらないモノを貰ってしまう時、贈りたくないけど付き合いの為だというモノ。

それを除けば、贈り物ってのはお互いが幸せになれる。

お互いが幸せになれるモノってのは意外と少ない。

人に感謝するなんてのもそうかもしれない。

それでもごく僅かしかないないだろう。

贈り物ってのはそれだけ数少ない、お互いに幸せな気持ちになれる素晴らしいモノ。

そんな素晴らしいモノならやるしかないだろう。

しかも、~の日だとか、~デーと贈り物を送る機会ってのまで用意されてる。

その時に、日頃の感謝も一緒に贈り物をするなんて、最高に幸せだろう。

贈るのが恥ずかしいなんて人もいるだろう。

何を送ればいいのか悩む人をいるだろう。

でも、そういう人が一所懸命躊躇して、考えた末に渡す贈り物っては絶対喜ばれるだろう。

その恥ずかしさや、考え込んだ時間が多ければ多いほど、より濃い幸せが待ってる。

いっぱい悩んで選べばいい。

恥ずかしくて贈れなくてもいい。

いつかその感情や悩みを超えて贈れた時の喜びは、想像すれば分かるだろう。

最高な幸せって、そういう贈り物の中にあるのかもしれない。

贈り物って最高だよ。

どんだけ幸せな気持ちにさせてくれるのかって話。

機会あれば、悩んで恥ずかしがってもいいから渡してみよう。