月の終わり。
8月31日から9月1日になった。
月が変わって思うことは、もう〇月かぐらい。
それか、年が変わる1月1日になった時に年が明けたと思うぐらいだろう。
でも、何故か8月から9月に変わる時は、少し思いにふけることがある。
それは夏が終わった悲しさか、9月になると涼しくなるかなという思いか。
それとも夏の思い出を思い返すためか、仕事や学校での一年の半分が過ぎたからか。
どれかは分からないが、9月になると人は少し思いにふける。
それはその時にゆっくり、一度この年の過ぎていく速さを実感するためなのかもしれない。
時は絶対にとまってくれない。
気付けば9月か。
そういう考えになるのがこれからの月だ。
後、3ヶ月で今年も終わる。
年が変わったところで何が変わるってわけじゃないが。
月の始まりが訪れたってことは、さっき月が終わったってこと。
当たり前なことほど考え深い。
自分なんて。
自分なんて。
そう人は呟く。
自分に自信がないから。
自分なんてと言ってる傍らで、そんなことはないと他の人に反論してほしいと願う。
そういう狡賢い生き物なんだ。
自分を認めてほしいからか、自分にライトを当ててほしいからか。
自分の方を見てほしいからか。
そういう人ほど、自分なんてって言葉を使う。
誰かに自分が必要だと思わせたいのか。
必死に生きている人の口からは、そういう言葉は出てこない。
自分なんてって言ってしまった時、どういう感情だったか。
何か後悔をしていたのかもしれない。
自分のしたことが人に迷惑をかけたのかもしれない。
そういう状況でネガティブな思考に陥る。
そんなことを考える間もないぐらい、必死に生きてみよう。
そんな余裕がなくなるから。
自分なんてって思っている時間はない。
いつも前を向けって言っているわけじゃない。
その言葉を言ったり、呟いてみたり、思ってみても何も変わらないってことだ。
そんな言葉を吐いている時に、機会は通り過ぎていく。
染まる。
人は人の色に染まる。
人が人を染める。
人は人に染められる。
人を動かせるのは、人しかいない。
人が赤色だと言ったら、ほとんどの人が赤色に染まる。
人が青色だと言ったら、ほとんどの人が青色に染まる。
人の中に黒色は存在しない。
人の色を一人の色だけでは染められない。
一人では、他の大勢ある色には勝てない。
だから、人は多数決を設ける。
一人違う色が混ざったとしても、元が多いところにいっても自分がその色になるだけ。
それが正しいかどうかなんてのは分からない。
でも、人はそうやって時代を生きてきた。
しかし、例外が起こった実例もあるだろう。
一人の呼びかけで、色が変わったことも。
極々稀にそういうことがある。
それを人は奇跡と呼ぶ。
じゃあ今問いてみよう。
あなたは奇跡を起こせますか。
その色に染まったままで、奇跡なんて起こせない。
離れる。
ずっと寄り添う。
ずっと傍にいる。
ずっと一緒だ。
そういうような言葉は曖昧で何の現実味もない。
それに、別にずっと近くにいなくてもいい。
時には、そういう人から一度離れることも大切。
好きだから、大事だからはとても大切なことだろう。
でも、だからといってずっと何てのはどうだって辛い。
離れることを恐れてはいけない。
離れられたからといって、捨てられたわけじゃない。
そこで信用の度合いが試される。
自分から離れることも、相手が離れることも理解しないといけない。
それが優しさってものだ。
ずっと一緒にいるのが優しさではない。
時には、別々のことを目指すぐらいのことがあった方がいい。
履き違えないように。
離れることは悪いことじゃない。
渇く。
人は喉が渇く。
それと同じように、人は人生が渇くのを恐れている。
人は平凡でいることに慣れたくない。
日々、何か起きないかと考えている。
それだけ、人の欲望は渇ききっている。
常に何か潤うものがないと、人は文句を言う。
それが人の本能というもの。
それは隠そうとして、隠せるものじゃない。
人が欲に飢えると、自然とその渇きをだす。
行動であったり、言動であったり、生活であったり。
渇きを潤すまでは、人は欲望のままに生きる。
それは人が人であるならしょうがないこと。
だから、もし自分が何かに渇いているのなら、我慢する必要はない。
その渇きを潤すためのことを考えて行動しても、それが道徳的に良しとするなら。
それを誰も止めはしないだろう。