一人になりたい。
一人になりたい時がある。
人は人と支えあって生きている。
それでも時よりたまに、一人で過ごしたい時がある。
一人の時間がない人は、徐々に疲れてくる。
みんなで楽しくワイワイすることが好きな人も。
たまには一人で落ち着く時間も必要だろう。
一人だと暇だという人も、暇だからこそ出来ることもあるだろう。
一人で暇な時ほど有意義に過ごせる時間もない。
誰に気を遣うわけでもなく、誰に行動を制御されるわけもなく。
みんなでいれば出来ることも沢山ある。
でも、一人だからこそ出来ることも沢山ある。
時たまには一人になることも悪くない。
世の中は集団で動くことを重視する。
一人でいるとのけ者にされる。
でも、集団だと見えてこないことがある。
それは一度一人にならないと分からない。
一人でいることを恐れちゃだめだ。
みんなといることがすべてじゃないだろう。
確かに人が多いと楽しいことも多い。
だからといって、一人の時間を作らないのは違う。
さて、今日は一人で何をしようか。
もしも。
もしも~があったなら。
誰しも一度はもしも話を話したことがあるだろう。
ドラえもんの話はほとんどもしも話。
もしもボックスまであるぐらいだ。
もしもああなってたら、日頃からそういう願いでいっぱいの人もいるだろう。
もしもって思って、本当にその事柄が起きることなんてない。
人は希望を持つことをやめない。
どんなに醜い望みも、希望なんて言葉にすれば良く聞こえるだろう。
もしもなんて口にするだけ無駄なことなのかもしれない。
でも、どれだけ人が成長しようと、もしもの話はする。
してはいけないことではないんだから、勿論し続けるだろう。
人は望みを捨てては生きていけない。
捨てる必要もない。
人は起こりもしないことが好きだ。
でも、それを起こそうと人は頑張れる。
そしていつか、何年何十年何百年かけて、人はそれを起こす。
人の可能性は必ず常識を覆す。
意味合い。
人によって言っていることの意味合いが変わってくることがある。
先生が正論のように言う言葉は、子どもには何も分かってないように聞こえる。
子どもが大人に反発する時に言う言葉は、大人には屁理屈に聞こえる。
政治家が言う言葉は、国民にとっては嘘のように聞こえる。
言う人によって同じ言葉でも、捉え方の意味合いは変わってくる。
それこそ偏見なのかもしれないが、そう捉える人も少なくはないだろう。
人は偏見を必ず持っている。
若者はだらしない。
大人は嘘つき。
それはそうで、逆は逆に同じようなことを思っている。
そうでない人の方が多い中で、どうしてもそういう人は目につく。
その人が言う言葉は同じ言葉でも、人には響かない。
全く意味合いが変わってくる。
言葉の意味ってのは大事だけれど、それを言う人の人格、人徳が合ってこそあのかもしれない。
言葉は人を選ぶ。
人は言葉を選んでも、使い方によって意味合いが違うから大変だ。
意味合いがどっちに転ぶかは自分次第だ。
やりたくない。
やりたくないことがある。
その度合いはどれくらいか。
どちらかと言えばやりたくない。
やれって言われたらやるけど、自分からはやりたくない。
普通にやりたくない。
絶対にやりたくない。
どうしてもそのことだけはやりたくない。
やりたくないって思う気持ちは、人ならばほぼ毎日何かしらのことで思う。
出来ることなら家事もしたくない。
出来ることなら仕事もしたくない。
出来ることなら動きたくない。
そんなことばかり人は言う。
確かに楽に越したことはないだろう。
でも、やりたくないこともやらないと自分の人生は回っていかない。
やりたくないって思うことも、自分の為に必要なことだと思えるような考えかた。
仕事をしている自分が格好いいだとか、そういう感じのことでいいんだ。
やりたくないことを無理にやろうとすると、人は壊れてしまう。
昔はやりたくなかったことも、どこか考え方を変えて普通ぐらいに持っていけば、
人は壊れずに生きていける。
やりたくないことに対して自分を追いつめているのは自分だ。
誰も何も追いつめては来ていない。
自分との対話しだいだ。
ヒント。
何かに行き詰った時、ヒントが欲しくなる。
自分じゃどうしようもない時。
行き詰って自分の力じゃどうしようもない。
そういう時にヒントがあると助かる。
問題を解くために用意された手掛かり。
大人が子どもに出来ることって、そういうことだと思う。
答えを教えるだけでは、人は成長しない。
そんなことは多くの人が気付いている。
だから、少しのヒントを与え、残りは自分で考えて解かせる。
そういうものを用意できるのは大人しかいない。
今まで経験してきたことを問題を解く手掛かりとして残す。
子どもが行き詰っている時、助けれるのは大人しかいない。
その助けが必要かどうかは、大人の経験次第だ。
ヒントを残して子どもを導くのが大人の存在意義だ。
ヒントを見つけるのも大人の役目だ。
大人は役割が多い。
それは全て未来ある子どもの為だ。
生まれ変わる。
生まれ変わるなら何になりたいですか。
生まれ変わったら、あの職業に就きたい。
生まれ変わったら、違う人と付き合いたい。
生まれ変わったら、子どもの時から勉強したい。
生まれ変わったら、違うスポーツも経験したい。
生まれ変わったらの話をするのは嫌いじゃない。
本当はそういうことがしたいんだなと思える。
昔は気付かなかったけど、今ならあの時の選択を変えれる。
そして、より良い方向に行けたと思う。
だから、生まれ変わったらその選択が出来ると信じたい。
人は後悔するほどそういう選択のミスを思い浮かべ対応を変えたがる。
生まれ変わるなんてことは出来ない。
それはほとんどの人が分かってる。
でも、そういう夢物語が人は好きなんだ。
間違っちゃいない。
そんなことを考えずに今変わればいいんだって言う人もいるだろう。
確かにそうなのかもしれない。
変われるなら、生まれ変わることをする前にやればいいだけの話なんだ。
でも、人ってのはそう簡単に変われるものじゃない。
それを知ってても理想を追い求め変わろうとするか。
それを知ってても理想は理想のままで諦めて夢見るか。
変われる人ってのはきっかけがどうしても必要だ。
変わろうと思うなら今だ。
それしか言えない。
でも、それで変われない人はどんなきっかけが来ても変われない。
その瞬間を見極めて、今だとそこに飛び込む勢いが必要だ。
二度目。
一度目の失敗は誰でも許してくれる。
許してくれない人はもうどうしようもない。
諦めてその人のことはほっておこう。
勿論失敗のあれにもよるけど。
大抵の人は一度失敗したら学習する。
その学習を活かして、次は失敗しないようにする。
それは昔から言われていて、誰でもそう聞いてきただろう。
失敗は成功のもと。
成功するまでには幾多の失敗がある。
その積み重ねが成功につながる。
何ていい言葉なんだろう。
確かにそう思う。
でも、反対にこういう考え方もある。
一度の失敗はいい。
その後も同じことで失敗するのは学習してないからじゃないか。
何回も同じ失敗ってのは酷く嫌われる。
七転び八起って言葉がある。
何度失敗してもくじけず、立ち上がって努力すること。
こういう風な意味だと思うが、これはとても夢のある言葉である。
努力している人はこういう言葉が大好きだ。
でも、ひねくれ者が考えると七回も転ぶような人は何回転んでも変わらないという考え方。
七回も転ぶ前に何が原因で転んでいるのか考えないことには、永遠に転んだまんまだ。
一度失敗したら、次はもう失敗しないように死力を尽くして気付こうとしなければならない。
強い言い方をすればそれぐらいな意識で。
でも、そこまでしている人はいないだろう。
それでも失敗して、次があるからと何もその場で考えない人はどうかなとは思う。
学ぶための失敗か、時間が過ぎただけの失敗なのか。
同じ失敗でも意味合いは変わってくる。
そんなひねくれ者の考え方。