言葉で世界は変えられる。

見てくれた人に何か考えてもらえたら。

委ねる。

世の中にはどうしても流れというモノが存在する。

人は流れに乗って過ごす。

その方が楽だからだ。

でも、時折人はその流れに逆らおうとする。

何でって、流れに逆らった方が格好いいからだろう。

自分には他の人が出来ない何かがあると信じて動く。

他の人が右って言っているのに、なら自分は左に行くと。

みんなと違ったことがやってみたい。

そういう気持ちは少なからず持っている。

それでも、人の流れってのは大きくて流されてしまう。

流されているのに、無理やり違うことをする必要はない。

身を委ねるのが賢明な判断だ。

もう両手を広げて、その波の上で浮かぶだけでいいんだ。

それは簡単で、自然と向こう岸まで運んでくれる。

流れるプールで逆走しようとすると体に負担がかかるだろう。

無理にやる必要はない。

しかし、ずっと委ねているだけだとダメだ。

同じところをひたすらグルグル回るだけ。

結果同じところに戻ってきてしまう。

じゃあいつ動けばいいのか。

それはその流れが一瞬止まった時だ。

流れが止まる休憩時間に別の流れを作ればいい。

人は流れが右か左かなんて気にしていない。

どっちだっていいんだ。

だってただ流れているだけなんだから。

だから、流れを変えたい人はそこで逆の流れを作ればいい。

そうしたら流れに乗って他の人もついてくる。

その流れが正しければ、ずっとその流れのまま回っていれるだろう。

人の流れなんてそれの繰り返しだ。

右回りか左回りか。

ただひたすら回るだけだ。

流れを変えるのは一瞬だ。

それまでは身を委ねるしかない。

無理に流れに逆らおうとすれば、体が先に悲鳴を上げる。

委ねてぼーっと流されてみるのもいいのかもしれない。

立場。

自分の立場は見誤らないように。

立場なんて関係ない。

どんな立場であれ、どんな立場の人とも変わらない。

それは完全に間違いだ。

人それぞれ立場ってのはある。

それによって制限されることも、幅広く出来ることもある。

それがあるのは現実で事実だ。

立場は違えど、意見を述べることはどんな立場の人にだって出来る。

立場が違うと出来ないこと、それは批判だ。

批判ってのは、相手と同じ立場に立っていないとダメだ。

平等なんかこの世の中にほとんどない。

どんなに差別をなくそうが、人は心の内側では平等を嫌う。

自分が少し上に居たい。

そういう人が溢れ返っている世の中では。

立場が違う状態で、批判をしたことでそれは妬みか僻みか。

そういう風にしか受け取られない。

ただし、意見は違う。

立場が違うからこそ出来る考え方。

そっちの立場ではそうかもしれないけど、こっちの立場からすればこうだよって。

それもまた一つの考え方として。

立場の違いはそういう意見の交換には必要不可欠なことだ。

同じ立場の人ばかりでは、偏った考え方になりがちだ。

立場は上手く使えば、全く考えつかない発見ばかりだ。

それを間違った思想で批判するだけでは、何も変わらない。

もし、どうしても伝えたいことがあるのならば、同じ土俵に立って意見しよう。

新しい。

新しい発見を見つける。

人は同じことの繰り返しをしていると、物事に飽きてしまう。

人は飽きることを嫌う。

新鮮な何かを見つけたがる。

新しい何かを発見して、自分の心の高鳴りがないと活力がなくなる。

刺激のない、何も変わり映えのしない毎日を送っていては退屈だ。

その退屈を打破するためには、どうにかして新しい興味を見つけないと。

毎日が忙しいと、そういうモノを見つける機会も少ない。

そういう時は、本当に仕事などの帰り道に周りに目を向けよう。

そういうのは、身近に転がっている。

横を向いてみれば知らなかったモノがあるかもしれない。

人は歩きながら、意外と周りに興味を持って歩かない。

周りに興味を持つことが、新しい何かを見つける為には簡単で確実な方法だ。

飽きずに生きる為には、周りに目を向ける。

それだけで、この世の中には数えきれないほどの何かが転がっている。

探そうとすれば何でも見つかる。

探そうとしてみよう。

話はそこからだ。

ライン。

ここだって思った時、目の前に引かれた線を飛び越えて行けるか。

人は行動を起こす時、無意識に目の前に線を引く。

それを超えれた人だけが行動を起こせる。

人はその一瞬一瞬の内に、心の中で葛藤を演じる。

そこで一歩を踏み出すのを、人は勇気と呼ぶ。

勇気は言葉で言うのは簡単だ。

勇気を出せ。

君に勇気がなかったからだ。

その引いてある線はただの線じゃない。

その一瞬、その場、その時、選択のない時なんてない。

人は思い込みが激しい生き物だ。

常に自分だけが不幸だと嘆く。

行き詰まっているのは自分だけだと勝手に勘違いしている。

何でそういうことが起きるか。

人は常に何かに怯えながら生きているからだ。

何をそんなに怯える必要があるのか。

人が恐れているのは、周りの人だ。

人は人が一番怖い。

だから、各々線引きをする。

そして、周りを警戒しつつ、その時が来るのを見極めている。

線は人との境界線と飛び出す勇気を試すためにある。

誰も線に沿って歩けというわけではない。

飛び越すか、手前でチャンスを伺うか。

そのどちらかだ。

目の前にあるのはレールなんかじゃない。

ただの線だ。

それ以外でも、それ以上でもない。

よく見てみれば分かる。

あっ、何だこれかぐらいにしか思わないだろう。

その線を飛び越えるのは一歩でいい。

しかも、大股でなくてもいいんだ。

小さな一歩でも超えれる線だ。

誇り。

 誇りがある人。

誇りがない人。

誇れるモノがあるかないか。

何も難しいことじゃない。

自分が今まで何か続けてきたものがあれば、それはほとんど誇れるモノだろう。

誇れるモノって言われると一度考え込み、何か大きなモノを探そうとする。

でも、どんなに小さいことでも誇れるモノを見つけれるというとこが重要なんだ。

折角、いろんなことが出来る、やれる世の中なんだ。

何かしら見つけることが大切だ。

そこに何も現実を求める必要もない。

他の人がああだから、自分もそれぐらい誇れるモノがないと。

そんなことを思う必要は何もない。

誇りはどんなことでも一つあるだけで生き方は変わる。

その誇りがあるから胸を張って生きていける。

言葉だけでは重く受け取られそうだが、実際は軽い。

誇りってのは何も威張るための道具じゃない。

自分の中に留めておくだけでもいいんだ。

持っているからこそ、自分の行動に自信が持てる。

誇りは自分が真っ直ぐ立って、歩くために必要なモノなんだ。

ただ歩くためだけにそんな重いものは持てない。

自分に合った誇りは何なのか。

簡単でいいんだ。

何か持って歩いていこう。

神頼み。

人は誰しもが神頼みに生きている。

運を天に任せて、流れに身を任せる。

そんなことばかりを続ける。

願えば叶うと思っている人ばかりだ。

もしも叶わなくても人は決して神の所為にはしない。

誰もそこまで神を信じていないからだ。

何で神頼みをするのか。

それは少しでもその願いを叶えたいから。

もしくは少しでもその願いを楽に叶えたいから。

その思惑があるからだろう。

願ったら願いっぱなし、そのままにして何れ願い事をしたことも忘れる。

願い事なんて、その時の一瞬の思いだ。

常に同じ願い事をしている人は、気付くべきだ。

それは願うだけではどうしようもないことだと。

願い事なんて、明日は遠足だから晴れてほしい。

明日は何かラッキーなことがありますようにぐらいだ。

それ以上を神頼みしたって結果はついてこない。

他のことなんて大抵自分の努力しだいだ。

神にも縋る思いってのは、自分に自信のない人だけがすることだ。

自分の努力に自信を持てば、神に頼る必要もないだろう。

神に力なんてないんだ。

力があるのは自然と自分だけだ。

甘え。

人は甘える。

人は自分には甘い。

人は他人には甘くしてほしい。

人は他人には厳しい。

自分に厳しく出来るってことは、その甘えが少ないってこと。

自分に甘い人は成功しない。

自分に厳しく出来ない人は成功しない。

自分に甘い人は自分のことが大好きだ。

それは悪いことなのか。
自分のことが大好きで何が悪い。

自分に甘くして何が悪い。

それは最早本能とも言えるものである。

本能と言えば、聞こえが良くなるのは事実。

でも、それだけのことは言える。

何かを続けている時、辛くなって辞める。

すぐに何かを断念する。

何も続かない。

自分でやると決めたことがなかなか続かない。

何でって、辛い気持ちを味わいたくないからだ。

それが全てだ。

自分が一番かわいいんだ。

自分に一番関心がない人は、何をやっているんだ。

まずは自分だろ。

他人なんて二の次だろう。

自分に甘く、他人に厳しく。

何も悪くない。

それが悪いとするその雰囲気こそが一番悪い。

表では自分に厳しく見せていても、そういう人ほど見えていないとこでは自分に甘い。

まずは自分を一番に思え。

自分の良さを最大限に活かす方法を見つける。

辛かったらやめてしまえばいい。

それでもやりたいと思ったことだけやればいい。

本当に好きなことは、どんなに辛くてもやめれない。

自分の本性を見抜け。

まずはそこからだ。